東京パラリンピックのゴールボールで注目されているのが欠端瑛子選手です。
欠端選手のプロフィールや経歴からすごい父親について、そしてゴールボールとの出会いなどを調べていきます!
欠端瑛子の父親ゆずりのすごい経歴
欠端選手は1993年2月19日、神奈川県横浜市で生まれました。
先天性白皮症で視界はほとんどありませんが、高校生で始めたゴールボールではその才能を発揮し、日本代表のエースとして活躍しています。
165cmの身長を生かして繰り出される回転投げは、彼女のプレースタイルの代名詞として知られています。
16歳のときにゴールボールを始めた欠端選手は競技開始後わずか2年で日本代表入りを果たしました。
その勢いのまま出場した2012年のロンドン・パラリンピックでは、なんと金メダルを獲得するという快挙を達成。
センターというポジションで、チーム内での存在感もますます大きくなるばかりです。
今年の東京オリンピックの前哨戦とされた、2018年秋のアジアパラ競技の大会で、ゴールボールの女子日本代表は金メダルを獲得しましたが、その快挙の裏側には欠端選手が積み上げた得点があり、彼女の得意技である「回転投げ」のパワーが衰えることがありません。
欠端選手の活躍の裏には、彼女の家族の存在があります。
欠端選手の父親は元プロ野球選手の欠端光則さんです。
現役時代は得意のフォークボールを駆使してチーム最多勝利を複数回達成するなど、投手として活躍されました。
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欠端(かけはた)瑛子の病気や視力の障害
欠端選手は3人きょうだいの末っ子で、生まれてすぐ体のメラニン色素が少ない、先天白皮症(アルビノ)と診断されました。
視力は0.05と非常に弱く、視界はぼんやりとぼやけてしまうと言います。
兄2人と元プロ野球選手である父親と、一緒に遊ぶこともあったと言いますが、やはり明瞭な視界でないことに加え、日焼けが禁物ということも相まって、次第にスポーツには消極的になっていきました。
欠端(かけはた)瑛子がゴールボールを始めたきっかけ
ここまで欠端選手の経歴についてご紹介してきましたが、そもそも欠端選手はどのようにしてゴールボールという競技に出会ったのでしょうか。
欠端選手は先述の通り、先天性白皮症によって弱視を患っていました。
盲学校時代、友人に誘われてゴールボールを始めたことが、欠端選手の人生を大きく変えるきっかけとなりました。
鮮明に視界を捉えることのできなくても、自信をもって取り組むことができるスポーツの存在をそのとき初めて知ったと欠端選手はいいます。
当初はセンターとして活躍していた欠端選手ですが、次第にレフトを任されるようになり、攻守の要を担っています。
欠端選手のSNSでは、普段のかわいらしい彼女の日常を見ることができますが、彼氏の存在は明らかになっていません。
いまは開催が近づいている東京パラリンピックを見据えて、日々のトレーニングに余念がないことでしょう。
重さ1.25キロのボールを、いかに正確に相手のゴールに決められるかが、パラリンピックまでの課題だと言います。
朗らかな表情からは想像もできない強さを秘めている欠端選手。
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まとめ
- 欠端瑛子選手は先天白皮症を発症していおり、視力への障害があった
- 欠端選手は競技開始後2年でパラリンピック出場、東京大会で3回目となる
- 欠端選手の父親は元プロ野球選手の欠端光則投手だった
- 盲学校時代の友人の誘いでゴールボールをはじめていた